画像『中濱鐵 遺稿集』1932年

『中濱鐵 遺稿集』長田哲二郎編 
昭和七年六月、名古屋労働問題研究所発行
体裁・美濃判袋綴、謄写印刷
序(中浜哲を語る)五頁、本文八四頁
頒価五十銭

原本所蔵「序」の冒頭欠落
詩タイトルのアップ・デート

IMG_5885
IMG_5886

IMG_5888


IMG_5957
IMG_5955
IMG_5959
IMG_5958
IMG_5961
IMG_5962
IMG_5964
IMG_5966
IMG_5968
IMG_5971
IMG_5970
IMG_5974
IMG_5976
IMG_5978
IMG_5980
IMG_5982
IMG_5986
IMG_5988
IMG_5990

詩「杉よ! 眼の男よ!」初出原本『労働運動』大杉榮・伊藤野枝追悼號より該当頁画像

IMG_6107



IMG_6099
1

IMG_6200

IMG_6166
1-3

2-3

3-3


A
B
C

3



4

5

6

7


8



9
10
11
12


奥付

IMG_6042

戯曲「逗子の大杉」『祖国と自由』大杉榮追悼號

祖国と自由祖国と自由目次
逗子の大杉
大杉書簡
野枝神戸
大杉遺児たち

中濱鐵 詩リスト

IMG_5917

1『中浜哲遺稿集』長田哲二郎編。昭和七年六月、名古屋労働問題研究所発行。 体裁・美濃判袋綴、謄写印刷。序(中浜哲を語る)五頁、本文八四頁。頒価五十銭。

2『祖国と自由』黒パン

3『労働運動』

4『反逆者の牢獄手記』

5『民衆娯楽』

6『労働放浪監獄より』

7『黒潜』 以下再録誌

8『ニヒルとテロル』1968年

9『タナトス』4号1971年

 

★暁に望む 1

いざ往かん為 1 2

何処に行く 1 2

運命ぢやねや 1 3

貸家札 3

閂 6

業縁期算 9 

 

<原始掲載>

偶然?必然?果然?当然? 1 8

警鐘を撞く 9 

 

<『祖国と自由4 1925年8月』掲載>

★講談詩 1

★ゴヤの女 1

地獄を覗く 5

視察来 1 3

自由の被告 5

嘯獨 1 2

女工と囚徒 1 7 9

陣痛 2

杉よ!眼の男! 1 2

その日 1 4

断片独語 1 7 9

★ダダッ児 1

★髑髏は語る 1 

髑麺 黒パン党戦言 2

★沈黙の味 1

どん底 1 3

流る 1 

 

下記と同一か

流れの外に流る 3

反射するカメラ 1 

メーデーの正体 3

詩「反射するカメラ」

IMG_5917
<反射するカメラ>

 

獄中影

差入れの本の間より

黝きクローバの一つ落ちぬ

彼女のこゝろか

 

轉げ出でぬ

六神丸の原料のごと

紫の膽の色 菫の押し花

 

壁に活かして

セイリョフの幻影を

追ひ懐かしむ 昂奮れる今は

 

せめてもに

十三人にて起こせしと聞く

外国の革命を偲び 涙を拂ふ

 

国禁の書を悉皆読み破りたし

国禁の思想 術なく

籠れる今は

 

詩「髑房小景」


IMG_5917

艶消し戀我のビイルデイング

 社會傳染病院の隔離室──冷蔵庫

  三疊の板敷き床とん

 便箱龜 福壽草

   味噌摺鉢にて面洗へ!

ゴザ一枚御座る

 處方箋決定

ナイヒリスチツク

 アナクロ、コンミニユズム

  思想菌保有者にして

下痢 下痢 下痢──

便紙入用者は報知機を下ろせ!

此の壁一重が──

 東隣は放火症

   局部の腐爛 唐辛色の緋膨れ

附添の看護婦が菜蕃所の臺所に

お百度踏んで

豫診博士にゴマ摺り通した

お蔭が適面

頑固な瘡葢も剥げ落ちたらしい

 エンヤラヤツト 明日退院

  蒲團と淺裏と引き摺つて

 ホーシヤクゝゝ

灰色の娑婆へ

  有劑

 〇、四六四九

計八卦見立也

  痴呆菜蕃所

   豫審博士

 泥吐かせ泥鰻まむし

  同食器

禿琺瑯めんこ

地獄の里芋に

黄金蟲が泊る

  自辧中毒

糞詰り、胃擴腸

 官調

   四分六ノ一二 食鹽水

   グリセリン、胡麻味噌、山椒の實

 西隣六六〇號

死刑症危篤

  胃の腑へ噛ム抛ル注射も長くはあるまい

   然り而して

   な往きそね疾く

  冥の府へ『音無しの構へ』──

洋服坊主の余録

賽の河原に橋架けて

 他力を杖に珠數繋ぎ

  淫道渡す

フレエーゝゝ經怪師

  アバヨ、アーメン、なあまいだ

掘る穴二ッ

窓 窓窓 鐵格子

  接見禁止でジヤボン玉がシヤツポ

   閻魔帳 黄帳面 黄表紙

赤紙 黒表等等不許可

一切合切嚢の底をはたいて山は見えた

堂ビルの煙突に飛び込んだ烏賊の群

石炭に醉つ拂つてフラゝゝ

   フライ ライスカレー 豚カツ

地下室食堂 圓テエブルの上の

皿の中に躍るコロツケ ビフテキ

ブランウイスキー ペパアミン

 ABCベタアミン コンデンスミルク

ホツト、カクテル

 ストーブ、ステイム 赫々

──寒かあないと思はんこともあると──

 天井にノツクしてウナ電を打つたら

 撚れゝゝの紐に感電して電球が朶んだ

彼女の月経は

  酸性反應を停滞する

   据膳の吸物

 痩た達磨がガツゝゝに噛ぢつてる夢の骨

その片側に

 蒼褪め凍えた獄衣にひつくるまつて

 縮こまつて轉寝してる起上小法師

  微に顫えへてる薄墨色の『時の影』

   ── 一九二四、一二、二二 ──

詩『黒パン党戦言』

IMG_5913


(御代泰平の××××、獄中にて) 
-1925.10.31-


其他に何も言ふことはねえ! 
   髑髏か? 
   麺麭か? 
俺達は俺達だァ! 俺達はこれでも二足獣のハシクレだァ! 
俺達は『黒パン』製造所の職工だァ! 
やねぇ! 

これが今の社会の滋養に為らうか成るまいがそんな事は俺達の知ったこつちだが 
プロレタリアには持って来いの食物だァ! 

     特殊の膨張薬……………………5% 
     蒸留水……………………………15% 
     パン粉……………………………80% 

念の為、左に原料の化学的成分を明示して置く 
-- 唯、咀嚼が足と不消化を起こして吃度下痢するぞ! 
又、獨特の味が湧いて来るァ! 
根気好く咬み締めて見ろ! 

一見、無臭無味ではあるが俺達の手でヂカに捏ねて、俺達の手でヂカに焼いて出来上がった物なのだァ! 

この『黒パン』は外国製の物ではねぇ! 
俺達は『黒パン』製造所の職工だァ! 
俺達はこれでも二足獣(にんげん)のハシクレだァ! 
俺達は俺達だァ!

報道された中濱鐵

a0219866_1443541

大阪分黒党中濱鐵脱獄作戦


東京朝日新聞

1925年7月5日

公判廷爆破の陰謀計画を述ぶ

福田大将そ撃に関連した大阪の爆弾事件公判<大阪電話>

 福田大将を狙撃した東京の主義者と気脈を通じ大阪刑務所北区支所に収容されたギロチン社員を脱獄せしめる為北区支所及び裁判所の公判廷爆破の陰謀を企てた無政府主義者小西武夫、山田正一、箴部治之助、小西松太郎の所謂大阪爆弾事件の公判は四日午前十時から大阪裁判所の二号法廷で斎藤裁判長金子検事立会い、古野、内田官選弁護士出席の上開廷

 傍聴に来て居た同主義者の逸見吉蔵外四名が天満署に検束されたので傍聴席には主義者の影もなく、被告の小西は一味を脱獄せしむる方法として

一、北区支所で特別面会の時ピストルを乱射してこの混雑に紛れ決行すること

一、公判出廷の途次を待受けて行うこと

一、公判廷で傍聴席から爆弾を法官席になげうちその混雑に乗じて行うこと

一、刑務所で一味の運動して居る時を見て控訴院の二階から綱をおろすこと

 等を計画し資金が要るので松太郎から三回に三百八十円を引き出したと裁判長の問いに対して答え次いで山田以下各被告の訊問に入ったが山田は控訴の事実は幾らか違うがさ大体を認めた



1925年4月19日夕刊東京朝日新聞

大阪でも主義者の恐るべき陰謀発覚す

東京の一味と連絡を取って刑務所等爆破の企て

<本日記事の差止解除>

……右事件と関連して大阪においても無政府主義者の一味が恐るべき陰謀を企て危く実行に入らんとする昨年九月、早くも官憲の探知する處となり一味を一網打尽に捕縛し、右事件の記事掲載を禁止して慎重に取調べていたが、漸く一段落を告げると共に十八日午前解除されるに至った。

 大阪における陰謀団の首謀者は

 山田正一

 小西武夫

 富岡誓

 の三名で昨年九月末事件発覚と共に中津警察署が中心になって多数の一味を検挙し大阪地方裁判所金子検事、服部予審判事の手で取調べたところ陰謀の内容は意外に根強く先づ大阪市北区若松町の大阪刑務所北区支所を爆破して囚人を脱出させ、次で

 関東関西の一味を以てテロリストの大集団を作り、前記刑務支所と接続する天満警察署及び警察部特高課を爆破し、更に社会運動方面の捜査検挙を担当する当局者に危害を与えた後三越、高島屋両百貨店を爆破すべく計画したものである。

 これより先東京で福田大将狙撃事件起るや大阪においても無政府主義者の大捜査に着手した結果東京の一味倉地啓示がトロ人夫となって広島県……昨年九月二十七日夜倉地が神戸を経て大阪に来た所を取押さえ直に東京に護送したる……中津署では大いに驚き時を移さず九月三十日南区瓦屋町に住む主義者の巨頭武田伝次郎方から前記山田正一を、翌日には小西武夫を捕縛し

 ……

 富岡誓が三日に一度位づつ交替で面会に行った山田、小西を獄中でせん動し手段方法を授けていた事も明かとなった、……

 一味の素性軍隊内で宣伝したり詩人風のある富岡誓は郷里の小学校卒業後上京早稲田大学を中途退学してブラブラしていたがその中適齢で入隊し満州駐在軍にいたが赤化宣伝をやって処刑された退営後満州を放浪して大正九年頃帰朝し、文士加藤一夫の許に駆けこみ同氏が創立していた雑誌自由人の編集を助け漸次無政府主義者と親しくなった、震災後加藤氏が兵庫県武庫郡芦屋に転居したのを便って来阪し、労働争議が起る毎に京阪神をかけ廻っていたが後、南区水崎町の逸見直蔵一派の借家人同盟と接近して黒社を組織し雑誌「クロ」を出版したりしていた

 同人は詩人肌の男で今までにものした短長詩は数百篇に上り、加藤一夫氏の斡旋で詩集を出版すべく準備中だったと

 <山田は倉地をかこう>

 山田正一はせむしで幼少の時出郷し大阪南区高津二番丁に住む主義者武田伝次郎方に彫刻見習い弟子として住みこんだ

 武田の実兄は大逆事件に連累して入獄中の男で、武田も社会主義者であるが金属彫刻師として優秀の腕を持っているので之に師事して習得している中に何時の間にやら無政府主義に共鳴し関西労働運動社に加盟し、東京の同志ともしばしば往復するようになり東京の爆弾犯人倉地啓示を慝まった廉で最初取調を受けたが一時釈放された、この時はまだ東京の事件が発覚していたのみでその後倉地の自白によって検挙されるまで依然武田方に居った

 <百貨店等を脅し廻る肺病の小西>

 小西武夫は弟次郎と共に大阪では古い無政府主義者である

 四五年前まで大阪某呉服店の店員を勤めていたが一度主義者の群に投ずるや百貨店等の内情を……つをやっていた……で肺結核で……富岡から「北区支所を爆破すればお前の弟次郎も救い出せるではないか」と言われて……したのである、尚小西松太郎は武夫の従兄で決行のの時には決死隊の一人として働かせるべく……ふり當てられていたと

 <古物屋の番頭から過激性に富んだ箴部>

 箴部治之助は十二、三の時来阪し東区瓦屋橋東詰の古物商田結庄の店員に住みこみ、七、八年も仕事に精出し同店の番頭になったが五六年前当時南区笠屋町に本部を置いていた荒畑寒村のL .Lに加盟して、はじめて社会主義運動に投じ

 ついで武田伝次郎の関西労働運動社(大杉栄の支社)に出入りし、其後更に大阪紡績労働組合の幹部となり無政府主義者と交ってテロリストの色彩を強め曾て兄義之助と同様恐かつ罪で服役七箇月に処せられ昨年八月出獄して一時東区瓦屋町四丁目……周次郎方帳場で車夫をやっていたが最近ではほとんど働かず、山田にすすめられて今回の謀議に加担したが、不言実行無謀な過激性をもっているので決行に当たっては爆弾を投じるぺく役目を振当てられていた

 

ギロチン社

 IMG_5917


 中浜鉄と古田大次郎を中心とした活動組織がギロチン社。著名な会社へのリャク行為と資金獲得のための銀行員襲撃、大杉栄らの虐殺への復讐を目的とした労働運動社の和田久太郎(震災時の戒厳令司令官、福田雅太郎狙撃未遂)村木源次郎との共同行動、その後の爆弾使用が震災後の社会不安と相乗されネーミングも含め社会にインパクトを与えた。

 1922年2月、中浜は埼玉、蓮田の小作人社に立ち寄り、古田大次郎と意気投合、同志的交流が深まる。 4月には社会変革のため死を賭した行動の盟約を古田と結び、中浜は来訪中のイギリス皇太子を狙うが断念。1922年10月、早稲田の戸塚源兵衛<現新宿区西早稲田>に大きな二階家を借り、翌1923年始めにかけ倉地啓司、河合康左右らが同居や出入り「ギロチン社」と名付けられた集団がたちあがる。

 夏頃には関西に拠点を移し、分黒党とも名乗るが、中浜、河合が好んで使った。この時期のリャク行為が事件として扱われる。(中浜は高島屋呉服店、天満織物、実業同志会の件) 1923年、ギロチン社メンバーが警察に検挙され、古田は中浜らと身を隠す。

 9月、ギロチン社は関東大震災での大杉たち活動家の虐殺に直面し、権力者や資本家を直接攻撃する行動に向かう。大杉虐殺を号外で知り「よし、思い知らせてやる」と決意する。田中勇之進の甘粕五郎襲撃の (殺人未遂)を起こす。

 古田は小川と内田に手伝いを頼み 10月16日、小阪の十五銀行出張所の銀行員を襲うが現金の奪取を失敗したうえに、誤って銀行員を刺殺してしまい、東京へ向かう。中浜はこの件でも計画に関与として教唆(強盗殺人)で立件される。この頃、中浜は後に広く知られる「杉よ !眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。

 古田、中浜たちは大杉虐殺の復讐を計画していた労働運動社の村木源次郎や和田久太郎と共同した活動も始め、ピストルや爆弾を獲得するため朝鮮に赴き、義烈団との接触をすすめる。古田は11月の半ば、友人の高島と一緒に京城に行く。後に中浜も合流。

 義烈団に爆弾 10個、拳銃5丁購入を申し込むが入手できず、さらに資金確保のため、大阪に戻った中浜は 1924年3月30日(14日)リャクを行い、実業同志会事務所から出たところを恐喝犯として逮捕される。

 1924年7月17日、東京に戻った古田は東京蛇窪の家へ移り自身で爆弾製造にとりかかる。

谷中の共同便所を爆破、青山墓地でも試す。

9月1日、和田は福田の狙撃に失敗、逮捕される。



古田は 9月3日の晩、和田が留置されていた本富士署に爆弾を投げるが不発、小包爆弾を製造し、郵送。

6日に福田邸で小包が爆発するが怪我人は無し。

翌晩は銀座の電車軌道にしかけ爆発するも損害は無し。

世間は騒然となるが 9月10日未明に村木源次郎と共に警察に捕まる。





 中浜の第一審は1925年5月5日の3回公判で死刑求刑。



 5月28日、無期懲役の判決。古田の第一審は1925年9月10日、死刑判決が出される。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される。

 古田の純真な思いが 表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。中浜は検事控訴により大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決となる。上告せず、 4月15日午前10時に絞首された。

 中浜は判決直後の 3月中には死刑を執行されると 覚悟、山崎今朝弥弁護士に辞世の歌を記したハガキを送る。

「弥生空 魏櫓枕高く 霞往く 黒蝶ぞ我 散る花に 舞う」

 中浜の控訴審死刑判決や他の同志の過重な量刑の判決には多くの疑問がある。

 中浜が構想していた集団の理念は以下の内容であった。

「此の集団は最初其処には、宣言もなく、一定の綱領もなく、従って運動に対する各自の部署とてもなかった。些の拘束をも厭う無政府主義思想であり組織制度をも認めず他人を支配して犠牲になることも肯ぜず唯自主自発的に自決して、相互に兄弟愛を持って、扶助し生活しようとしたのである。」(『獄中記』)。

 しかし現実にはリャクを繰り返す事が目的化し、仲間たちの団結は薄れ、中浜自身も直接実行したのはリャク行為だけである。

 メンバーの倉地啓司が後にギロチン社総体の目的に関して「当時の摂政宮への攻撃であった」と話している。 (『新過去帳覚書』71年刊)。しかし実行されずに、周辺には曖昧な話ながら洩らし、確かな計画からは程遠いものであった。

 恐喝以外の実行に関与しなかった中浜にも死刑判決が出されたのは、イギリス皇太子や摂政宮へのテロリズムの意志に対しての報復判決で思想を裁いたと理解するしかない。

 


中浜は「実際の神體 ──特別至上なる架空的権威を抹殺する為に闘争の力を以って…」(「闘争への道」) と獄中から寄稿した論文では天皇打倒を示唆している。またギロチン社の目的はテロリズムだけではなくコミューン建設をも遠い目的としていたことを中浜は示唆している。









 

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ